「言葉は力~力は言葉ではなく」
祝町学童クラブ支援員のみなさま
子どもが生まれたときに職場のお一人からお祝いに「おさるのジョージ」(岩波書店)を頂きました。初めて手にする黄色を基調とする絵本でした。絵本環境のなかった僕にとっては子どもが喜んで見る絵本かなと不可思議に思っていました。風呂上がりに胡坐の上に子どもを乗せシャンプーの香りを感じながら絵本を読むことが習慣となっていました。が子どもは一向に飽きることなくジョージシリーズを楽しみにしているのですが、読み手が先に睡魔に襲われることは度々でした。この経験はおそらく僕一人ではないかもしれません。
1988年にアニメとなってテレビ放映された「アンパンマン」(フレーベル館)も子どもが幼少の時に出合いました。アンパンマンが自分のほっぺを取っておなかがペコペコに人にあげる場面では次男は泣いていました。旅人、森で迷った子どもに自分の顔を食べさせ、顔がなくなった後にはパン作りのおじさんに新しい顔を作ってもらい、おなかの空いた人を助けるために空へ旅立つ物語ですが、自分のほっぺが取られたと錯覚したのか、アンパンマンに感情移入したのか定かではありませんが痛かったのでしょう。分かち合うことはつながりと同時に痛みが伴うとやなせたかしは発信をしていたのでしょうか。
♬そうだ うれしいんだ いきるよろこび たとえ むねの きずがいたんでも なんのためにうまれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ! いまを生きることで あついこころもえる だから きみはいくんだ ほほえんで そうだうれしいんだ 生きるよろこび たとえ むねのきずがいたんでも ああ アンパンマン やさしいきみは いけ! みんなのゆめ まもるため ♬ 《作詞 やなせたかし》
字数を制限するレターとはいえ自分自身は分かったつもりでいたことが分かりました。読み手にとっての分かりやすさに疑問を感じて先月の皐月レターに下線部以下を追加しました。一方、絵本の言葉は「絵」の助けと共に推敲を幾重にも重ねて読者に伝わる言葉で表現されていると思います。子どもを対象にしている“アンパンマン”ですが、一つ一つの言葉を自分が歩んでいる生を通して吟味することがあります。精選された一文一文に作家の心を感じます。作家自らの原体験がやさしく、深く、愉快に伝わり感じ入る絵本に出合うと嬉しくなります。
「人と自然が和解するとはどういうことでしょうか」「私(中村哲)は自然にも人格があると考えています。だから人格を持つ自然と人間が和解すると表現しているのです」。質問をされたドキュメンタリーカメラマンの谷津賢二は「自然を物言わぬものと思えば、人間は欲望のままに恵みを奪い尽くす。しかし自然に人格があると思えば、対話が成立し、いたわる気持ちも持てる。人は自然と対話しながら、分をわきまえた恵みを受け取ることでしか、私たちの未来は成立しないのではないか」と中村哲医師の真意を理解したという一文に触れた時、武者震いをしました。谷津賢二が彼に触れ、目撃し、薫陶を授かった(ペシャワール会会報151号)21年間の生の凝縮に自然に頭が深く深く下がりました。
やなせたかしの人生、中村哲の人生の足跡を辿れば辿るほどに生の「現場」にどれほどまでに誠実に向き合っているかと省みるばかりのこの頃です。
2022年6月10日
祝町学童クラブ運営委員長 内山賢次
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